クジラが見る夢

「クジラも歌う?」

「歌う。いつも歌っている。あれは偉大な生き物だ」

とジャックは言って、遠くを見た。

「ただサイズが大きいだけではない。
 存在として、知性として、大きい。
 生物の身体には無駄がない。
 ある器官が発達しているにはそれなりの理由がある。
 そして、クジラはとても大きな脳をしている。
 人間の比ではないし、身体に比較しても大きい。
 しかもクジラの生活には何の苦労もない。
 海の中で最も大きな生き物だから、敵という程の敵はいない。
 食べるためにあくせくすることもないし、
 着るものの心配も、金の苦労もない。
 出世しようと身をすり減らすこともない」

そうジャックは言って、僕の顔を見て、にやっと笑う。

「では、クジラはあの大きな脳で何を考えているのか?」

「物質的なことは何一つ考えなくていい。
 そういう問題があることさえ知らない。
 とすれば、あとは哲学的な瞑想しかないじゃないか。
 宇宙とは何か、存在とは何か、
 自分が今ここにいるとはどういうことか、時間とは?
 そういう問題をクジラの言葉で、あるいは言葉で冴えない何かで、
 いつもゆっくりと考えている。
 何百キロも離れたところにいる仲間と歌で議論する。
 ひとつのテーマを一年がかりで、あるいは十年がかりで考える。
 できることなら、彼らの考えを聞いてみたいと思うよ。」

「しかし、人間にはその資格がない」

「ないね。まだない。
 今はまだ互いの存在を認めあるのがせいぜいだと思うね。」




「クジラが見る夢」池澤夏樹 1999

ジャック・マイヨールと池澤夏樹の会話より